担当者から「来月で辞めます」と告げられる。長くその仕事を一人で支えてきた人だ。困ったことに、社内を見渡しても、その仕事を引き継げる人がいない。教える相手がいないまま、退職日というカレンダー上の一点だけが、確実に近づいてくる——この辞典が扱うのは、その場面である。
日々のちょっとした属人化とは、少し性質が違う。ここには「もうすぐ、その人の頭の中ごと会社から失われる」という期限がある。猶予が無い。だからこそ、何から手をつけるかで結果が大きく変わる。
こんな場面に、心当たりはないか
- 退職日は決まっているのに、引き継ぎ相手が決まらない。誰に振っても、その人の今の仕事で手一杯だ。
- 本人に「マニュアルを作っておいて」と頼んだが、日々の業務に追われ、退職日が近づいても白紙のままだ。
- いざ引き継ごうとすると、教えることが多すぎて、どこから話せばいいのか本人も分からなくなっている。
- 「この処理、月に一度しか出てこないんですけど、そのときはこうで…」という、めったに起きない例外ほど、本人しか知らない。
- 採用が間に合わず、後任が入るのは本人が辞めた後になりそうだ。二人が並ぶ期間が、そもそも無い。
一つひとつの手当てが決まらないまま、期限だけが近づく。

たいてい、こう考える
最初に出てくる手は、たいてい同じだ。
「引き継げる人を、早く探さなければ」。社内で手の空いていそうな人を探す。間に合わなければ採用を急ぐ。そして本人には「辞めるまでに、全部きちんと引き継いでいってほしい」と伝える。マニュアルを書いてもらい、後任に付きっきりで教えてもらう——いわゆる「引き継ぎ」である。
人を手当てし、教えてもらう——引き継ぎとしては、ごく標準の手順である。
だが、実際にはそう運ばないことが多い。探しても引き継げる人は見つからず、採用は退職日に間に合わない。本人は本人で、辞めるまでの残りの日々も通常業務を回しながらなので、まとまった引き継ぎの時間が取れない。気づけば、何も残らないまま最終出社日が来てしまう。
だが、本当の問題は「引き継ぐ相手がいないこと」ではない
引き継ぎがうまくいかない本当の原因は、相手が見つからないことでも、本人が忙しくてマニュアルを書かないことでもない。
原因は、引き継ぎを「人から人へ、バトンを手渡すこと」だと捉えている、その前提のほうにある。バトンを渡すには、受け取る手が要る。だが今は、その受け取る手(引き継げる人)がいない。人から人へ渡すものだと考えているかぎり、相手がいない以上、この問題は構造として解けない。探しても採用しても間に合わないのは、そもそも渡し方の前提が、目の前の状況と噛み合っていないからだ。
ここで見方を一つ変える必要がある。引き継ぐべきなのは「人」ではなく、「その仕事が回る状態」のほうである。
「あの人ができること」を、そっくり別の誰かの頭に移す——そう考えるから、教える相手が要り、教える時間が要り、間に合わなくなる。そうではなく、残すのは「本人がいなくても、その仕事が回り続ける状態」のほうだ。回る状態さえ残っていれば、後任がいつ入っても、その状態をたどって仕事を再開できる。受け取る手が今この瞬間に無くても、状態のほうを先に置いておける。
もう一つ、期限がある状況ならではの落とし穴がある。時間が迫ると、人は「どうせなら全部を、漏れなく引き継がせたい」と考えてしまう。だが残り時間で全部を渡すのは、たいてい無理だ。全部を狙って手が止まり、いちばん大事なものすら残らない——これが起きやすい。
では、どう考えるか
考え方を変える。全部を引き継ごうとするから、時間切れになる。だったら、全部は諦めて、止まると本当に困る順に絞る。そして、その絞った分だけを、本人が答えられるうちに「人の外」へ出しておく。
軸は二つだ。
一つ目。渡す中身を、優先順位で切る。本人がやっている作業を全部書き出す必要はない。問うのはただ一つ、「これが止まったら、いつ・誰が・どれくらい困るか」。翌日には請求が出せなくなる、取引先への納品が止まる——そういう「止まると即座に困る」ものから順に並べ、上のいくつかだけに時間を集中させる。下のほうにある、たまにしか起きず、起きても後で調べればなんとかなるものは、思い切って後回しにする。
二つ目。渡し先を「人」に限定しない。頭の中にある手順・判断の基準・例外への対応を、本人が在職しているうちに、文書なり仕組みなりの「モノ」に移す。本人が自分の口で答えられるのは、辞めるまでの、今この期間だけである。この窓が閉じる前に、頭の中を外に出しておく。後任がいつ来ても、その「モノ」をたどれるようにしておく。これが「仕事が回る状態を残す」ということの中身だ。
「誰に覚えさせるか」ではなく、「本人が答えられる残り時間を、何に使うか」。ここに発想を移すと、やることが定まってくる。
選び方:道はいくつかある
「仕事が回る状態を残す」といっても、進め方は一つではない。どの道を取れるかは、会社の側の条件で決まる。
A案:辞める本人の頭の中を、AIに「聞き出させて」残す
いちばんの壁は、本人にマニュアルを書く時間が無いことだった。文章を書き起こすのは、慣れていないと重労働で、通常業務の合間には進まない。その部分を、AIに持たせるという道がある。答えをもらう使い方ではなく、作業を肩代わりさせる使い方になる。ここでのAIは、聞き役であり、整理役である。
使い方としては、たとえばこうなる。本人が、AIに向かって話すだけでいい。「まず何をして、次にどこを見て、この数字がこうなっていたらこう処理して、月に一度だけこういう例外があって……」。口で説明するだけなら、机に向かって文章を書くより、はるかに短い時間で、はるかに多くを引き出せる。AIは、その話を聞きながら、抜けているところを質問で埋め、手順書や判断の一覧の形に整理してくれる。
- 「今『在庫がマイナスだったら』と言われましたが、ゼロのときはどうしますか」
- 「その承認をもらう相手は、いつも同じ方ですか。不在のときの代わりは決まっていますか」
こうして、本人が話す→AIが整理して質問で穴を埋める、を繰り返すだけで、頭の中が文書として外に出ていく。さらに残したものをAIに預けておけば、後任が入った後、「この場合ってどうするんだっけ」と本人がいなくてもAIに尋ねられる。つまり、引き継ぎ相手が「人」でなくても、まず仕事が回る状態のほうを先に作れる。
- 向く場面:本人に文書を書く時間がない。教える相手(後任)がまだいない、または退職日に間に合わない。例外や判断の分かれ目が多く、口で説明するほうが早い仕事。
- 割に合わないこと:これで全部が片づくわけではない。AIが整理したものが正しいかは、本人が最後に目を通して直す必要がある(ここは人がやる)。専門的な判断や、言葉にしづらい「勘」の部分までは、話しても取りこぼしが出る。会社のデータをAIに渡してよいか、扱いには線引きが要る。
- 始める前に要ること:本人が話す時間を、短くていいので確保すること(一度に全部でなく、止まると困る作業から小分けに進める形もある)。整理した内容を本人が確認して直す一手間。
※AIにはいろいろな種類・サービスがある。ここでは「特定の製品を入れる」話ではなく、「本人の頭の中を、聞き取って整理させる相手としてAIを使う」という考え方を指している。無料で試せるものもある。どれが合うかは、会社の状況によって変わる。
B案:止まると困る順に、本人に手順を書き出してもらう
AIを使わず、本人に文書で残してもらう。ただし全部ではなく、前述の「止まると困る順」の上位だけに絞って書いてもらう。
- 向く場面:残す作業の数が少ない。本人に、多少なりとも書く時間が取れる。手順があまり複雑でなく、書けば伝わる仕事。
- 割に合わないこと:文章を書くのに時間がかかり、通常業務と並行だと進みが遅い。書いた本人がいなくなると、読んで分からない箇所を後から質問できない。
- 始める前に要ること:「止まると困る順」の上位を、本人と一緒に三つ程度に絞ること。全部を書かせようとしないこと。
C案:社内の次の人にこだわらず、その仕事を外に預ける・減らす
引き継ぎ先を「社内の後任」に限定しない、という道もある。その作業を外部の委託先に預ける、専門の業者に任せる、あるいは「そもそもこの作業自体が要るのか」を見直して縮小・廃止する。人がいないなら、仕事の量そのものを減らすか、社外に回る状態を持たせる。
- 向く場面:後任の採用が現実的でない。経理や給与計算など、外に委託できる定型業務が中心。惰性で続いていて、実は減らせる作業が混じっている。
- 割に合わないこと:委託には費用がかかる。会社の内情を外に出すことになる。何を頼むかを整理して伝える手間は、結局こちらに残る。なお給与まわりは、計算そのものと、その先の社会保険・労働保険の手続きとで、任せられる相手が違う。どこまで頼めるかは、委託先に先に確かめる。
- 始める前に要ること:外に出す前に、その作業が「何を・どういう順で・どう判断してやっているか」を一度書き出すこと。丸投げでは、受け手も動けない。
一つに絞る必要はなく、止まると困る上位はA案で急いで残し、外に出せるものはC案へ、といった組み合わせもある。残り時間から逆算して、間に合うものから始める。
自分でできる、はじめの一歩
一円もかけずに確かめられることがある。
まず、紙を一枚用意して、本人がやっている仕事のうち「これが止まったら、すぐ困る」ものを、上から順に三つだけ書き出す。端から順に潰す話ではない。順番をつけることが目的で、四つ目以降は今は考えない。
次に、その一番上の一つについて、本人に五分だけ時間をもらう。「最初に何をして、次にどこを見て、そのとき何を確認しているか」を、そのまま話してもらい、録音するか、書き取る。うまくまとめようとしなくていい。話した言葉が、そのまま残ればいい。
そして、その話した内容を、無料のAIチャットに貼り付けて、「これを、別の人がたどれる手順書に整理して。抜けているところは質問して」と頼む。このとき、取引先名や個人が特定できる部分は伏せておく。入力した内容がどう扱われるかは、使うサービスの設定と規約で決まる。返ってきたものを本人が見て、違うところだけ直す。これで、頭の中にしかなかった一つが、「外に出た一枚」になる。
ここまでは、費用も要らず、今日から動かせる。この一歩で残せるのは「いちばん止まると困る一つ」までだ。そこから先、数の多い作業や、判断の難しい工程が残る。
それでも、自社の事情が残るときは
「残り時間で、どこまで手が回るか読めない」「後任が来ないまま辞められると、本当に回るのか不安だ」「AIに頭の中を聞き取らせると言っても、何をどう話させ、どこまで会社のデータを渡していいのか分からない」——同じところで詰まる会社は少なくない。期限が決まっているぶん、やり直しがきかない。
そういうときは、OSAKA AI-Center の窓口に相談するという選択肢がある。何かを買う必要はなく、こちらから売り込むこともない。「うちはこういう作業を一人が抱えていて、退職日がいつで、後任のあてがこうで」——その状況から、残り時間で何を優先して残すべきかを一緒に整理するところまでが、この辞典の役割である。
ITは、本来は専門家の領分でもある。弁護士や税理士のように、ITと経営の両方を知る第三者を"ブレイン"として側に置く——という考え方もある。何もかも自社だけで抱え込まなくていい。この辞典も、そうした相手と一緒に読めば、自社に合った次の一手につながりやすい。
うちの場合はどうなのか、という部分は残る。
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