長い付き合いの取引先から、見積もりの問い合わせが入る。担当者は、品物も数量も分かっている。出せないのは金額だけである。「あそこは昔からこの値段で」——その理由を知っているのは代表で、代表は今日と明日、出張でつかまらない。返事は二日後になる——この辞典が扱うのは、その場面である。
こんな場面に、心当たりはないか
- 取引先の担当者の携帯番号が、会社の名簿には載っていない。代表のスマホには入っている。
- 請求書の控えを見れば、単価は分かる。なぜその単価なのかは、どこにも書いていない。
- 同じ品物でも、取引先によって値段が違う。理由を聞かれた担当者は「社長に確認します」と答える。
- 相手の会社で話を決めているのが誰なのか、書類の宛名からは分からない。
- 取引先のほうも、急ぎの用件は会社の番号ではなく、代表の携帯にかけてくる。
- 代表が戻れば、どれも一分で片づく。そのため、困りごととして数えられたことがない。
どれも、代表がいる日には起きていない。

たいてい、こう考える
この場面で出てくる考え方は、二つに分かれやすい。
一つは「連絡先を共有すれば済む」。代表のスマホの電話帳を会社の名簿に写す。もらった名刺を取り込んで、誰でも引けるようにする。
もう一つは「取引先との付き合いは、社長の仕事そのものだ」。長年の信用で成り立っているものを、書いて渡せるはずがない。そう受け止めて、話をそこで閉じる。
向きは逆だが、二つには共通点がある。どちらも、取引先との付き合いの中身を、ひとかたまりのものとして扱っている。全部写せるか、全部写せないか、である。
だが、本当の問題は「連絡先が共有されていないこと」ではない
電話帳を名簿に写しても、冒頭の見積もりは出ない。番号で分かるのは誰にかけるかであって、いくらと答えるかではないからである。
取引先との付き合いの中身は、置かれている場所で三つに分かれる。
- 会社の書類:請求書や見積書の控え。いつから、何を、いくらで取引しているか
- 代表の一台:相手の担当者の番号、値決めのやりとり、現場で撮った写真
- 代表の頭:なぜその値段なのか、相手の会社で誰が決めるのか、誰の紹介で始まったのか、過去に何があったのか
書類に残っているのは結果で、理由は頭にある。結果と理由が別々の場所に置かれていて、つながっていない。
見落とされやすいのは、その理由が、これまで一度も語られていないわけではない、という点である。担当者が聞けば、代表は答える。「あそこは数量をまとめてもらう約束で、あの値段にしている」「先代のときに世話になった先だ」。答えは、見積もりのたびに出ている。ただ、問いが出るのは電話が鳴ったときだけで、答えはその一件に使われて終わる。次に別の担当者が同じ取引先の見積もりを作るとき、同じ問いがもう一度、代表のところへ行く。答えは何度も出ているのに、一度も残っていない。
残らないのは、残す作業に持ち主がいないからである。書類を作るのは担当者で、理由を知っているのは代表。二つをつなぐ作業は、どちらの仕事にも入っていない。締め切りも無い。担当者の仕事であれば、休みや退職が期日になる。代表の仕事には、その期日が立たない。
「属人化」という言葉は、担当者について使われることが多い。ただ、日本政策金融公庫総合研究所の論文(2024年2月)は、この言葉を経営者本人に向けて使っている。自分の代で事業をやめるつもりで、そもそも誰かに継いでもらいたいとは思っていない経営者が挙げた理由——「経営者個人の感性・個性が欠かせない事業だから」「経営者個人の人脈が欠かせない事業だから」など——について、その多くは「経営者の属人的な資質や人脈などが事業と強く結びついていることを示している」と書いている。
そして、三つの場所にあるものを一枚につないでも、まだ渡らないものが残る。相手が「この会社」とではなく「この社長」と付き合っている、という関係そのものである。中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」(2024年8月)は、会社を譲り受ける側が評価する要素の例に「優良な取引先との人脈・商流」を挙げ、こうした要素を「譲り渡し側経営者にとって自明であるが故に気付きにくい魅力」と書いている。会社の値打ちの一部でありながら、本人には当たり前すぎて、数える対象になっていない。
つまり、中身は、記録にできるものと、記録にしても移らないものに分かれている。「全部写せる」と「全部写せない」のあいだで話が止まるのは、この二つが分けられていないからである。
これが、どの会社でも問題として立つわけではない。先の論文が扱う2023年1月時点の調査では、後継者が決まっている会社(313件)に、承継の際に問題になりそうなことを複数回答で尋ねている。「取引先との関係の維持」を挙げたのは18.5%で、同じ問いで最も多かった答えは「特にない」の33.0%だった。
では、どう考えるか
問いを「社長の頭の中を、どう残すか」から、「この取引先について、書類に書いていないのは何か」に置き換える。
前の問いは大きすぎて、どこから手を付けるかが決まらない。後の問いは、取引先一社ごとに答えが出る。書類から分かる欄(いつから、何を、いくらで)を先に埋めると、空いたままの欄が残る。なぜこの条件なのか。相手の誰が決めるのか。誰の紹介か。空いた欄は、そのまま代表への問いになる。電話が鳴った日にだけ出ていた問いが、先にまとめて出てくる形である。
そのうえで、欄にならないものを別に置く。相手が代表個人に寄せている信用は、何を書き込んでも欄には入らない。これは書くことでは移らず、別の誰かが相手と顔を合わせることでしか移っていかない。
期日についても、置き換えがきく。事業を次の人に渡す日は、どの会社にも来るわけではない。同じ調査(全国の中小企業4,465件が回答、従業者1〜4人の会社が65.4%)では、「自分の代で事業をやめるつもりである」と答えた会社が57.4%にのぼる。一方で、代表が二日つかまらない日は、渡す予定の有無にかかわらず来る。この場面の期日は、何年か先の一日ではなく、次に代表が不在になる日のほうにある。
選び方:道はいくつかある
中身が、記録にできるものと、記録にしても移らないものに分かれている以上、道もそれに沿って分かれる。
A案:AIに、残っている書類から取引先ごとの一枚を作らせ、埋まらない欄を質問にして返させる
担当者の手順や勘を残す話と違って、この題材では、中身の一部がすでに会社の書類に残っている。請求書と見積書の控え、会計の取引先一覧である。残っていないのは、理由といきさつの側だけになる。そこで、書類を読んで一枚にまとめる作業と、書類からは分からないことを問いにする作業を、AIに持たせる、という道がある。
頼むことは、たとえば次のとおりである。
- 「過去三年分の請求書と見積書の控えを渡す。取引先ごとに、いつから取引があるか、何を、いくらで、最後の取引はいつかを、一社一枚にまとめて」
- 「同じ品物なのに取引先によって単価が違うところと、途中で単価が変わったところを挙げて」
- 「それぞれの取引先について、この書類からは分からないことを、社長への質問として三つまでに絞って並べて」
- 「売上の大きい順に並べ、上から五社だけで止めて」
返ってくるのは、たとえばこういう形になる。
- 「A社:十年以上前から取引があります。品物Xの単価が、他の取引先より一割低くなっています。この単価にした理由は何ですか。今後も続ける前提ですか」
- 「B社:見積書の宛名は購買の担当の方です。金額が動くとき、先方で決めているのはどなたですか」
- 「C社:数年前を最後に取引がありません。取引が止まった理由はありますか。こちらから声をかけてよい先ですか」
代表は、白紙を前に書き起こすのではなく、並んだ問いに一言ずつ答える。声で吹き込む形でもよい。AIは、その答えを一枚の空いた欄に戻す。見積もりのたびに語られて、その一件で使い切られていた答えが、初めて同じ場所に残る。できあがるのは取引先ごとの一枚であり、その先の値段を決めるのは、これまでどおり代表である。
- 向く場面:請求書や見積書の控えが、数年分まとまって取り出せる会社。取引先の数が多く、どの先のことから聞けばよいかが、担当者の側で決められない会社。
- 割に合わないこと:一枚ができても、関係は移らない。相手が急ぎの用件でかける先は、一枚ができた翌日も代表の携帯である。また、AIに見えるのは渡した書類の中だけになる。電話だけで決めてきた値段や口約束は、骨組みにもならない。代表の一台の中身は、代表が出さないかぎり、AIにも社内の誰にも見えず、私用と仕事のどちらに当たるかを仕分けられるのも本人だけである。さらに、渡すものに相手の個人の情報が入りうる。個人情報保護委員会はFAQ(Q1-38)で、従業者が業務上使用している携帯電話の電話帳に氏名と電話番号が登録されている場合、「個人情報データベース等に該当すると解されます」としている。外のAIサービスを使うなら、入力した内容が機械学習に使われないかを先に確かめることになる。社名と取引の記録だけを渡し、個人の名前・番号・やりとりの画面は渡さない形にすれば、この点は小さくできる。最後に、代表の答えは代表の記憶であって、相手との約束の確認ではない。単価の拾い方をAIが読み違えることもあり、数字は元の控えと照らす手間が残る。
- 始める前に要ること:請求書・見積書の控えを取り出せる形にしておくこと。会計のソフトから取引先ごとの一覧を書き出せれば足り、紙しか無い分は写真やPDFでよい。もう一つは、代表が問いに答える時間。上から五社に絞れば、一社あたり数分の話になる。
※特定のAIの製品を指してはいない。ここで言っているのは、書類を読んで問いを作る役をAIに持たせる、という使い方である。
B案:取引先を一社ずつ、代表ともう一人で訪ねる
記録にしても移らない側——相手が代表個人に寄せている信用——を移す道。代表が、次に窓口になる人を連れて取引先を訪ね、相手の前で「今後はこの者にも声をかけてほしい」と伝える。相手から見て、この会社で話が通じる顔が二つになる。
事業を誰かに渡す予定がある会社だけの話ではない。継ぐ人が決まっていなくても、代表のほかに一人、相手に顔が通る人がいれば、代表が二日つかまらない日の返事は止まりにくくなる。訪ねる順は、代表しか連絡を取っていない先からになる。値段の理由やいきさつも、移動の車の中や、相手との会話の中で、その一人に伝わっていく。
- 向く場面:任せたい相手が社内にすでにいる会社。取引先の数が限られていて、主な先を一巡できる会社。
- 割に合わないこと:二人分の時間が、取引先の数だけ要る。会社を第三者に譲る場合についてだが、先のガイドラインは、譲ったあとの取引先への報告や業務の引継ぎに「3か月~1年程度の時間を要することが多い」(個別のケースで異なる)と書いている。相手が、代表との直接の付き合いを望み続けることもある。また、伝わった中身は同行した人の頭に入るだけなので、その人が会社を離れれば、同じ場面がもう一度起きる。
- 始める前に要ること:誰を連れて行くかを決めること。そして、どの取引先から回るかの順番。
C案:これから決める分だけ、決めたその場で会社の側に残す
過去の分は追わない、という道。新しい取引先と条件を決めたとき、あるいは今の取引先と値段を変えたときに、「誰と、いくらで、なぜ」を、決めたその場で会社の一か所に残す。
残す先を新しく作ると、書く作業が一つ増え、忙しい日から抜けていく。そのため、すでに必ずやっている作業の中に置く形になる。たとえば、見積書の控えに、社内だけが見る欄を一つ足す。代表が「数量をまとめる約束でこの値段」と一言伝え、見積書を作る担当者がそこに入れる。見積書は出さなければ仕事が進まないので、欄だけが取り残されることは起きにくい。
- 向く場面:過去の取引先が多すぎて、さかのぼる手が付かない会社。新しい取引先が増えている、あるいは値段の見直しが続いている会社。
- 割に合わないこと:今ある分には効かない。付き合いの長い取引先ほど条件が動かないので、いちばん理由が分からない先ほど、欄は空いたままになる。代表が電話で決め、書類を出さずに進む取引には、そもそも欄が無い。
- 始める前に要ること:残す先を一つに決めること。二か所に分かれると、どちらにも入っていない取引が出てくる。
並べてみると、Aは記録にできる分を、Bは記録にしても移らない分を、Cはこれから増える分を、それぞれ受け持っている。一つで全部を覆う道は無く、どこから手を付けるかは、代表の不在で止まっているものが何かで変わる。
自分でできる、はじめの一歩
書類を集める前に、紙一枚でできることがある。
代表が二日いない日に、問い合わせが来ると返事が止まりそうな取引先を、五社だけ書く。それぞれの横に、三つの問いへの答えを○か×で書き込む。
- 相手の担当者の連絡先を、代表のほかに誰かが知っているか
- 今の値段や条件の理由を、代表のほかに誰かが言えるか
- 相手は、代表のほかに、この会社の誰かの顔を知っているか
一つ目と二つ目の×は、記録にできる側の欠けである。三つ目の×は、記録にしても埋まらない側の欠けになる。五社のうち、どちらの×が多いかで、先に見る道が変わってくる。
紙の上で分かるのは、どの取引先が代表一人につながっているか、までである。何を記録にし、誰の顔をつなぐかは、そこから先に残る。
それでも、自社の事情が残るときは
「請求書の控えが紙の束でしか残っておらず、どこまでさかのぼるかが決められない」「取引先の名前や取引の記録を、外のAIにどこまで渡してよいのか線が引けない」「顔をつなぎたいが、任せる相手がまだ決まっていない」——五社を書き出しても、ここから先は会社ごとの事情で答えが変わる。取引先との付き合いは、一社ごとに年数もいきさつも違う。
そういうときは、OSAKA AI-Center の窓口に相談するという選択肢がある。何かを買う必要はなく、こちらから売り込むこともない。「うちの取引先で、記録にできるのはどこまでか」——その切り分けを一緒に考えるところまでが、この辞典の役割である。
うちの場合はどうなのか、という部分は残る。
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